「鈴木竜トリプルビル」 (愛知県芸術劇場小ホール 2021年12月3日)
「鈴木竜トリプルビル」は、鈴木竜の演出・振付・出演による3作品「never thought it would」(鈴木ソロ)
「When will we ever learn?」(鈴木含む4名のユニット)「Proxy」(6名のダンサーチーム)の公演である。
「never thought it would」(こうなるとは思わなかった)
ビナ・バウシュは、「踊り続けなさい。自分を見失わないように」と語った。しかし、鈴木竜は、とうの昔に我を忘れ、眩い炎に吸い込まれる蛾のように踊り続けて来たし、今後もただひたすら踊り続けるしかないと考えている。
暗い舞台の端に浮ぶ一本のライト、その下に横たわるダンサー(鈴木)の手が、ピクリと動きだすところから始まる。重低音ビートのエレクトロニカ・サウンドが空間を包み込み、舞台上にランダムに配置された十数本のライトは、白からカラフルに、また流れるような発光へと変わり、インスタレーション作品のようだ。
ダンサーは、薄暗い舞台でうねうねと床を這いながら立ち上がろうとするが、空中のライトがプレッシャーになるのか、簡単に立ち上がる事ができない。くすんだ色の衣装は、光を鈍く反射する素材で、ぬめりのある質感に見せている。そんなダンサーの動きは、芋虫を連想させる。身体をくねらせながらも立ち上がり、上を目指すが、中々手が届かない。鈴木は、空中のライトを「世界的なカンパニーや有名なダンサーに例えた」と語っている。もう少しと思えども届かない高み。藻掻きながらも上を目指すダンサーを、サナギから蝶へと脱皮しようとしている姿に例えるのか。これまでにない鈴木の振付に思わず引き込まれてしまう。
秀作である。テーマは抽象的だが、振付、音楽、美術、衣装が、よく練り込まれて見ごたえのある作品となった。
「When will we ever learn?」(いつになったらわかるの?)
現代の社会問題となっている「差別」や「ハラスメント」をテーマとしているが、「抗議としての作品ではない」(ドラマ・トゥルク丹羽)。社会問題として取り上げられるのは、それが世の中に広く蔓延している事の証に他ならないし、より難しくしている要因として、「人間関係=上下関係」とする考え方が根強いからだろう。
男女4名のダンサーによる作品だが、相手を取替えながら男女、同性同士のペアを作って、舞台上の菱形に区切られたスペースに登場する。ペアのダンスは、リードする側/される側の関係と言うより、片方の優位性を感じさせる動作・表現になっていた。振付は、男女、同性どのペアでもほぼ同じものだが、各々の役割が入れ替わっていた。最初、上位にあった者が、次には逆転し従属する立場になる、それを計4組のペアが繰り返す。
音楽は、60年代後半の”反体制”側といわれるボブディランやデビッドボウイ等の曲を流していたが、最後は、鈴木のソロで「花はどこへ行った」だった。「When will we ever learn?」と人間関係の問題に煩悶する現代人を映しだす舞いのようだ。
「Proxy」(代理)
人々のコミュニケーションが、SNSに依存するに従い匿名性が増加し、その匿名性が更にSNSの利用を増加させていく。ネット上では、自分ではない自分が、誰かわからない他人と繋がっていく。それを人間関係と呼べるだろうか。6人のダンサーが、それぞれに自分の人形(アバター)を持ち、その背後でダンスを踊る。人形はライトに照らされて明瞭に見えるが、ダンサー自身の顔は薄暗くはっきりしない。最後にアバターから離れたダンサーが、精気を取り戻したかのようにダイナミックにデュエットを舞う。生身の接触によって、人間同士のコミュニケーションを取り戻したようだ。
今回の公演のポイントは、「コレクティブな手法」での創作だ。日本のコンテンポラリーダンスといえばダンサーがひとりで音楽から美術、照明、衣装等、何でもかんでもやる個人営業が通例と思われる。それがこの公演では、それぞれの専門クリエータと協働し、更にドラマ・トゥルクの参加で、ダンス・パフォーマンス向上と作品に厚みを加えたのは間違いない。今後、日本のコンテンポラリーダンスが、世界に出て行くにはこの体制が必須である事を確信した。
「When will we ever learn?」(鈴木含む4名のユニット)「Proxy」(6名のダンサーチーム)の公演である。
「never thought it would」(こうなるとは思わなかった)
ビナ・バウシュは、「踊り続けなさい。自分を見失わないように」と語った。しかし、鈴木竜は、とうの昔に我を忘れ、眩い炎に吸い込まれる蛾のように踊り続けて来たし、今後もただひたすら踊り続けるしかないと考えている。
暗い舞台の端に浮ぶ一本のライト、その下に横たわるダンサー(鈴木)の手が、ピクリと動きだすところから始まる。重低音ビートのエレクトロニカ・サウンドが空間を包み込み、舞台上にランダムに配置された十数本のライトは、白からカラフルに、また流れるような発光へと変わり、インスタレーション作品のようだ。
ダンサーは、薄暗い舞台でうねうねと床を這いながら立ち上がろうとするが、空中のライトがプレッシャーになるのか、簡単に立ち上がる事ができない。くすんだ色の衣装は、光を鈍く反射する素材で、ぬめりのある質感に見せている。そんなダンサーの動きは、芋虫を連想させる。身体をくねらせながらも立ち上がり、上を目指すが、中々手が届かない。鈴木は、空中のライトを「世界的なカンパニーや有名なダンサーに例えた」と語っている。もう少しと思えども届かない高み。藻掻きながらも上を目指すダンサーを、サナギから蝶へと脱皮しようとしている姿に例えるのか。これまでにない鈴木の振付に思わず引き込まれてしまう。
秀作である。テーマは抽象的だが、振付、音楽、美術、衣装が、よく練り込まれて見ごたえのある作品となった。
「When will we ever learn?」(いつになったらわかるの?)
現代の社会問題となっている「差別」や「ハラスメント」をテーマとしているが、「抗議としての作品ではない」(ドラマ・トゥルク丹羽)。社会問題として取り上げられるのは、それが世の中に広く蔓延している事の証に他ならないし、より難しくしている要因として、「人間関係=上下関係」とする考え方が根強いからだろう。
男女4名のダンサーによる作品だが、相手を取替えながら男女、同性同士のペアを作って、舞台上の菱形に区切られたスペースに登場する。ペアのダンスは、リードする側/される側の関係と言うより、片方の優位性を感じさせる動作・表現になっていた。振付は、男女、同性どのペアでもほぼ同じものだが、各々の役割が入れ替わっていた。最初、上位にあった者が、次には逆転し従属する立場になる、それを計4組のペアが繰り返す。
音楽は、60年代後半の”反体制”側といわれるボブディランやデビッドボウイ等の曲を流していたが、最後は、鈴木のソロで「花はどこへ行った」だった。「When will we ever learn?」と人間関係の問題に煩悶する現代人を映しだす舞いのようだ。
「Proxy」(代理)
人々のコミュニケーションが、SNSに依存するに従い匿名性が増加し、その匿名性が更にSNSの利用を増加させていく。ネット上では、自分ではない自分が、誰かわからない他人と繋がっていく。それを人間関係と呼べるだろうか。6人のダンサーが、それぞれに自分の人形(アバター)を持ち、その背後でダンスを踊る。人形はライトに照らされて明瞭に見えるが、ダンサー自身の顔は薄暗くはっきりしない。最後にアバターから離れたダンサーが、精気を取り戻したかのようにダイナミックにデュエットを舞う。生身の接触によって、人間同士のコミュニケーションを取り戻したようだ。
今回の公演のポイントは、「コレクティブな手法」での創作だ。日本のコンテンポラリーダンスといえばダンサーがひとりで音楽から美術、照明、衣装等、何でもかんでもやる個人営業が通例と思われる。それがこの公演では、それぞれの専門クリエータと協働し、更にドラマ・トゥルクの参加で、ダンス・パフォーマンス向上と作品に厚みを加えたのは間違いない。今後、日本のコンテンポラリーダンスが、世界に出て行くにはこの体制が必須である事を確信した。
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