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葉栗里「ゆめのなかでなく」 Gallery+café Blanka

blankaでの葉栗さんの個展は、これで3回目(2014.1/8-1/26)。
cafeの隣にある展示室の前に立つと、ドアの下にいた猫と目が合った。顔は白で前足青、後足緑のたぶん猫。壁の上には、小さな雲もはりつけてある。
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ドアを開けて展示室に入ると、奥の方に少女の像が見える。横に大きく膨らんだ黒いスカートから細くて長い足がのび、上には細く華奢な胴体と腕がつく。中央に、どっかりと位置した塊の上下に細い線が生えるこのバランスが面白い。スカートは左右非対称にデコボコと広がり、木の幹をカットした部分が見えたり、木の表面のざらざらした感じも残っている。

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   「今回は、“山のスカート”を作りたい、が先に来て」
先ずはスカート部分を作ったのだそうだ。太い幹の二股に分かれたところをカット、更に縦に半分に割って、丁度おわんをふせた様な「山」にした。山の麓、スカートの下端がスパッと水平に断ち切られているのが印象的。少女のシャツには、白い四角の模様が描かれている。ふわりとなって横になびいた白い髪とあわせて、山の上に浮かんだ雲の様に見える。
これまでの葉栗さんの作品は、ふんわり感を前面にだして、水中を漂ったり空中に浮遊しているようなポーズが多かった。今回は「山スカート」を中心に据えることで、ふんわりから少々がっしりに変えた様に感じるかもしれないがそうではない。木彫作品に多く見られる、大きな木の幹から削りだした塊感や量感を出すものではない作りだ。頭部、胴体、腕、腰、足を寄木で作る事により、例えば、腕と胴の間の様な空間をいくつか配置する事が、「ふんわり」なのだ。「山スカート」も宙に浮いて、その上下の細身の体の周りに空間をまとう。
   「ここにでっかい胴体が来るのはぜんぜんベストじゃない」

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 展示室には、少女像の他に3頭のラクダがいる。ひとりと3頭でひとつの空間をつくる。ラクダは4足動物だが、これは2本足。顔を見ても、フラミンゴではなさそう。

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   「最初4本足で考えたけど、うるさ過ぎるというのがあったので」
2本足のラクダになった。背中のこぶが山で、そこから細い足が2本とひょろりと首がのびる。

地下展示室は、小さな作品が部屋全体に配置されている。
ここにも少女像がいくつかあるが、腰の部分はスカートかショートパンツかわからないが、構成は1階のものと同様。ただ、更に細い手足と胴体だ。
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  「肉感的とか量感がすごくあるのは、作ろうと思わなくて」
最近の若い女性で細すぎる程細い足の方もいるが、葉栗さんはそれを綺麗だと思う気持ちと、生きているのか作り物なのかわからない面白さを感じる事もあるそうだ。ここの少女像の頭は皆くるりと横になっているが、そんな違和感の面白さなのかもしれない。壁には4人の小さな少女が張り付いている。テラコッタ作品だ。
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こちらも皆頭は横を向いている。階段部には、ラクダが座っているが、背中は山だ。遊び心を感じさせるインスタレーションになっている。
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「どんどん変化させていきたいですし、多分していかざるを得ないと。同じ表現で立ち止まると言うのは、自分にとっては良くない事かなと。良くも悪くも右往左往しながら、ふり幅は大分あると思いますが、探りたいなというのが今の気持ちですね。」
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 今後の製作について語る葉栗さん、次回展示は、年末以降になりそうだ。
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葉栗里「ここはたしかこのあいだもきたとこだ」

2014年1月12日(日)伊勢現代美術館で、葉栗さんの展示「ここはたしか このあいだも きたとこだ」を見てきた。
朝7時に自宅を出発、渋滞がそれほどでもなかったので2時間と少々で到着。
この美術館は、南伊勢町の五ヶ所湾を望む高台に位置し、窓からは美しいリアス式海岸を望み見ることができる。
伊勢現代美術館の正面。
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庭の彫刻群の先に、五ヶ所湾の海岸を望む。
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何はともあれ、喫茶スペースで朝のコーヒーを頂いて。
葉栗さんがここで展示を行なうのは、昨年の「fresh 2012 葉栗里展」に続いて2回目。
伊勢美術館のブログ・・・fresh 2012 葉栗里展

今回の展示は、別館となる屋外彫刻館「宇空」で行なわれていた。
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作品は、白い塀に囲まれた野外展示場ではなく、入口となる三角屋根の建物内に展示されていました。
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博士課程の卒業制作展のときの、白い馬にのる娘ですね。葉栗さんのこれまでの作品は、頭を下にしたり、上を向いたりでしたが、今回は違う様です。まっすぐ前を見ています。馬に跨るのもこれまでに無いですね。でもまあ、あまり野生的とは言えない馬の顔もそうですが、全体にふんわり感が漂うのは如何にも葉栗作品と言えるでしょう。
馬に跨った娘は、どこに行くのでしょう。楽しかった学生生活も終わり、これから作家としての道を進もうと、少し高いところから先を見詰るかのようです。
「宇空」で見ていた時は気付かなかったのですが、今改めて写真を見てみると、
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なかなかどうして、口元キリリとして、しっかり前を見詰ています。手綱を持つ手も堅く握りしめ、気合十分です。
それにしても、このスペースに作品がひとつだけとは、寂しいですね。
じつは、展示開始時には、もうひとつ作品があったそうです。2013年8月に名古屋のギャラリ「地球堂美術」に展示していた「かすかなもくずたち」です。
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50cm程でしょうか、小作品ながら、葉栗さんの製作手法が少し変化を見せ始めた時のものでした。友人の大耳君によると、展示初日に破損してしまい、現在修理中だそうです。2つの作品が同じスペースに並ぶと、どんな風に見えるのか、興味をそそられます。作品は、触れずに鑑賞したいですね。

2013振返り:あいちトリエンナーレ)アルフレッド・ジゃー

2013年の気になった展示を振返ります。
アルフレッド・ジャー 《生ましめんかな》(あいトリ2013:名古屋市美術館’13.8/10-10/27)
あいちトリエンナーレの期間、名古屋市美術館は、通常とは異なる展示場構成に変えていました。
通常とは反対側に作られた入口を入って直ぐ、アルフレッド・ジャーの作品が見えてきましたね。正面には、透明なアクリルのケースに5色のチョークを敷き詰めたインスタレーション、両隣の薄暗い部屋の壁には、合計12枚の黒板が掛けてありました。
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黒板には、一定の時間毎に、タイトル《生ましめんかな》の文字が、映し出されます。
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A.ジャーは、チリ出身ニューヨーク在住の「アート作品を作る建築家」で、写真、映像、建築等で社会問題を扱う作家として知られています。

彼は、3.11で地震と津波の被害を受けた被災地を回りました。黒板は、使用できなくなった石巻市の小学校から提供されたもので、反戦詩人・栗原貞子の詩からとられた「生ましめんかな」の文字は、愛知県の小学生によって書かれたものです。この詩は、広島に原爆が投下された夜、地下防空壕に避難していた被爆者のひとりが突然産気づき、赤子を取り出す為に、同じ地下壕内に非難していた1人の産婆が、自らの怪我を省みずに赤子を取り上げるが、それと引き換えに命を落としたという内容です。
(※)この詩を知らない人も多いので、以下参照下さい。
  生ましめんかな   (栗原貞子詩歌集 1946.8)
    こわれたビルデングの地下室の夜だった。
    原子爆弾の負傷者たちは
    ローソク一本ない暗い地下室を
    うずめて、いっぱいだった。
    生ぐさい血の臭い、死臭。
    汗くさい人いきれ、うめきごえ。
    その中から不思議な声がきこえて来た。
    「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。
    この地獄の底のような地下室で
    今、若い女が産気づいているのだ。
    マッチ一本ないくらがりで
    どうしたらいいのだろう。
    人々は自分の痛みを忘れて気づかった。
    と、「私が産婆です。わたしが生ませましょう」
    と言ったのは
    さっきまでうめいていた重傷者だ。
    かくてくらがりの地獄の底で
    新しい生命は生まれた。
    かくてあかつきを待たず産婆は
    血まみれのまま死んだ。
    生ましめんかな
    生ましめんかな
    己が命捨つとも
※この詩は、郵政公社中国支社にある碑にも刻まれていますし、女優の吉永さゆりさんは、ボランティアで反戦詩の朗読を毎年行なっていますが、その中でもよく読まれるそうです。(ご参考)
石碑
この詩は、学校の平和学習の時間で取り上げられる事があり、栗原さんもその様な場に参加し、詩の意味を以下の様に説明したそうです。-「『生ましめんかな』は、平和を生むの意味」「『産婆さん』は、平和の日を知らずに死んだ20万人の人々」-

ここで、A.ジャーの作品の特徴、「イメージの背後にある社会的な関係についての問いかけ」が、始まります。命を賭して新たな生命を送り出した産婆の行為が、3.11後の私たちに問いかけるものは何なのか。地震と津波という自然の猛威の前になす術も無く、一瞬の内に、家族や最愛の人、これまでの人生で築き上げてきた全てを失い、絶望の淵に立っている人に、何を語りかけるのか。

私は、ビクトール・フランクルの言葉、「どんな人生にも意味がある」を思い出しました。ユダヤ人で精神科医だった彼が、ナチスの強制収容所での体験を記録した著書「夜と霧」にある言葉だです。
今も続く仮設住宅での暮しは、被災者の心を蝕み、孤独死の話も珍しくはありません。「いったいなぜこんな目に遭わなくてはいけないのか。こんな悲惨な人生には何も期待できない」と嘆く。それに対し、フランクルは、それでも「人生には意味はある」と答えます。人がなすべきは、生きる意味はあるのかと「人生を問う」のではなく、困難な状況に直面しながらも「人生から問われている事」に全力で応えていくこと。「誰か」が、「何か」が、あなたを待っているのだと。
重傷者がひしめく地下室の暗闇の中で、苦痛に呻いていた産婆は、「赤ん坊が生まれる」との言葉で、自分を待つものがいることを知る。彼女は、与えられた使命を果たすべく、全力でぶつかった。自分の人生に届けられた「意味と使命」を全うしたのだ。
「生ましめんかな」は、生きることがつらい人に対する、「あなたの事を待っている誰かが、あなたによって実現されるのを待っている何かが、きっとある筈」とのメッセージに思えます。
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ゆでたまご

Author:ゆでたまご
鑑賞者の目で現代アートを探求

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