木全祐輔 《両手で抱えられるもの》
木全祐輔 《両手で抱えられるもの》
ギャラリーエスパス(丸栄) : 2016年9月8日~9月14日
久しぶりに木全さんの絵画を拝見しました。ギャラリー内には、20点程の作品が展示されていましたが、ほとんどは今年(2016年)の作品だそうです。
奥に立っている黒いスーツの方が、木全さん。(小さすぎてわかりずらいですが)

木全さんの絵画の特徴は、そこに描かれているモチーフ(人やモノ)が、どちらかと言えば具象なのだが、それらの一部、又は全ての境界が曖昧で、溶け合う様な姿を見せる事だ。
《目は口ほどに》

テーブル(らしきもの)の上に、黒い皿の花器(らしきもの)が置いてあり、そこに溢れるように花がいけられている、(一見するとその)ように見えます。赤、黄、白、緑の植物らしいものは、はっきりとした花や葉の形にはなっていません。たぶん、テーブルと黒い皿の存在が、中央に描かれたモチーフを“花”と、見る者に思わせるのでしょう。
「目の前に花を置いて描いたわけでは」ないのだと言う。記憶の中の花を生けて見せたのだろう。テーブルらしき四角、器のような黒い線を最後に描くことで、「生けられた花のように」見せようとしたのだ。「この絵には、もうひとつのモチーフも描きました」その上に“花”らしきものを描いたそうだが、塗り重ねて見えないのなら、描く意味もないのでは。「でも、よく見ると、顔を描いたのが」わかるのだとか。いったいどこに?「それは言わない方が良いですね」宿題をもらってしまった。
(※その後、写真をじっくり見ていたら横顔が見えてきた)
《傀儡に眠りを》

傀儡 -「かいらい」「くぐつ」- 通常は、(あやつり)人形の意味。ここでは、人形にもお休みを、といったところか。人形にしては生々しいので、踊り子と読み替えたくなる。
人形が、椅子に腰掛けている構図だが、頭と身体の関係が何だかおかしい。手前には、身体が3体あり、片足の上げ方が少しずつ違う。その周りには、頭が5個見える。正面を見たり、左右や、後ろを向いたりで、表情もそれぞれ違っている。どの身体と頭が対になるのか。顔も身体もそれとわかるが、ふたつのつながりが、はっきりしない。木全さんの中で、人形のいくつかの表情と、片足をもちあげた身体の記憶が別々に存在し、それらがまたひとつに溶け合う様な感じだろうか。
人形が椅子に佇んでいる記憶は、二枚の合せ鏡を覗く様に、画面の奥まで続いている。木全さんの絵に時折現れる、記憶の連なりだ。ディテールは薄れるものの、輪郭は保たれている。そんな記憶をキャンバス上に載せていく。
「目の前のモデルを描いたわけでは」なく、自分の記憶の中にあるものを描いているのだそうだ。
木全さんは、絵画を制作するとき、「自身とモチーフの境界が曖昧になる」感覚を覚えるのだそうだ。絵画制作を続けてきて、その感覚が強くなり、「画中に複数登場する人物や木々などが溶けあい、それにより絵画空間が揺れ動き、新たな空間を生んで行く」ようになってきた。このような感覚をもったのは、木全さんの双子としての体験が、影響しているとも語っている。
(※参考: 展示資料のテキスト)
ギャラリーエスパス(丸栄) : 2016年9月8日~9月14日
久しぶりに木全さんの絵画を拝見しました。ギャラリー内には、20点程の作品が展示されていましたが、ほとんどは今年(2016年)の作品だそうです。
奥に立っている黒いスーツの方が、木全さん。(小さすぎてわかりずらいですが)

木全さんの絵画の特徴は、そこに描かれているモチーフ(人やモノ)が、どちらかと言えば具象なのだが、それらの一部、又は全ての境界が曖昧で、溶け合う様な姿を見せる事だ。
《目は口ほどに》

テーブル(らしきもの)の上に、黒い皿の花器(らしきもの)が置いてあり、そこに溢れるように花がいけられている、(一見するとその)ように見えます。赤、黄、白、緑の植物らしいものは、はっきりとした花や葉の形にはなっていません。たぶん、テーブルと黒い皿の存在が、中央に描かれたモチーフを“花”と、見る者に思わせるのでしょう。
「目の前に花を置いて描いたわけでは」ないのだと言う。記憶の中の花を生けて見せたのだろう。テーブルらしき四角、器のような黒い線を最後に描くことで、「生けられた花のように」見せようとしたのだ。「この絵には、もうひとつのモチーフも描きました」その上に“花”らしきものを描いたそうだが、塗り重ねて見えないのなら、描く意味もないのでは。「でも、よく見ると、顔を描いたのが」わかるのだとか。いったいどこに?「それは言わない方が良いですね」宿題をもらってしまった。
(※その後、写真をじっくり見ていたら横顔が見えてきた)
《傀儡に眠りを》

傀儡 -「かいらい」「くぐつ」- 通常は、(あやつり)人形の意味。ここでは、人形にもお休みを、といったところか。人形にしては生々しいので、踊り子と読み替えたくなる。
人形が、椅子に腰掛けている構図だが、頭と身体の関係が何だかおかしい。手前には、身体が3体あり、片足の上げ方が少しずつ違う。その周りには、頭が5個見える。正面を見たり、左右や、後ろを向いたりで、表情もそれぞれ違っている。どの身体と頭が対になるのか。顔も身体もそれとわかるが、ふたつのつながりが、はっきりしない。木全さんの中で、人形のいくつかの表情と、片足をもちあげた身体の記憶が別々に存在し、それらがまたひとつに溶け合う様な感じだろうか。
人形が椅子に佇んでいる記憶は、二枚の合せ鏡を覗く様に、画面の奥まで続いている。木全さんの絵に時折現れる、記憶の連なりだ。ディテールは薄れるものの、輪郭は保たれている。そんな記憶をキャンバス上に載せていく。
「目の前のモデルを描いたわけでは」なく、自分の記憶の中にあるものを描いているのだそうだ。
木全さんは、絵画を制作するとき、「自身とモチーフの境界が曖昧になる」感覚を覚えるのだそうだ。絵画制作を続けてきて、その感覚が強くなり、「画中に複数登場する人物や木々などが溶けあい、それにより絵画空間が揺れ動き、新たな空間を生んで行く」ようになってきた。このような感覚をもったのは、木全さんの双子としての体験が、影響しているとも語っている。
(※参考: 展示資料のテキスト)
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