米山よりこ あうこと-Adhere-
米山よりこ あうこと-Adhere- ポジション2016 アートとクラフトの蜜月
期間: 2016年1月5日(木)〜2月21日(日)
※1月10日(日)米山よりこトーク
場所: 名古屋市美術館
米山さんの作品を拝見するのは、2014年秋の古川美術館《つむぐけしきよむこころ》以来だ。
名古屋市美術館の2階展示室に入ると、目の前に《こめのゆめ》が広がる。その両側には、白居易の漢詩が、和紙の切り抜き文字で貼り付けられている。この手法の作品は、古川美術館での展示から始まったものだ。

右側の壁には、六曲一隻(ろっきょくいっせき:6枚の折り畳み面)の屏風が架かっている。表層の紙は剥がされており、細かな文字が書かれた勘定帳(かんじょうちょう:江戸~明治の会計帳簿)らしき紙が、下張りとして使われているのが見える。特に貴重な品という訳ではなく、どこにでもある、“古い”表具を持って来て、切り抜き文字を張り付ける為の台としたそうだ。

反対側の壁面には、文字を切り抜かれた紙を壁面に直接、貼り付けている。

「日本の表具は、木の枠に勘定帳とか古い紙を沢山貼るんですけど、表の絵は、それにしっかりくっつけないで、いつでも剥がせる様にしています。部屋に合わせ、絵の貼り替えができる様に」
今回の展示は、「接着」をテーマにしていると説明をしていたが、くっつける事だけでなく、剥がす事も同じ様に大事なのだとの考えに興味を惹かれたそうだ。
切り抜き文字は、白居易(はっきょい:白楽天の字(あざな)でも知られる)の漢詩『和夢春遊詩一百韻』からのものだが、一般には、「合者離之始」(会うは別れの始め)の言葉でよく知られている。

「この世で出会った人とは、いつか必ず別れが訪れる」
出会いは必ず別れをもたらすとの世の無常を表す、と表層的には言われるが、その本来の意味は、
「別れの悲しみや、愛のはかなさをあらわすが、それは出会う喜びがあったからこそである。始めがあれば終わりがあるのが世の常ならば、別れがくるまでの時間を大切にすることが大事」なのです。
「接着」という言葉に於いて、貼る事と剥がす事が同義だというならば、「会うは別れの始め」の文脈に重なって来るのでしょう。
《こめのゆめ》が、左右の壁にある八居易の漢詩の切り抜き文字に挟まれて展示されているのも、象徴的です。日常生活の中で、余って捨て去られるところを拾われ、絹糸にくっついて、作品に生まれ変わったお米達です。今、日本では、食品廃棄の量の多さが問題になっています。本来食べられた筈の、食べ残しや売れ残り食品は、年間数百万トンにもなり、日本人1人当り、おにぎり換算で1~2個分を毎日捨てている事になるそうです。
人々の舌を楽しませる為に生まれてきたお米達ですが、かなりの数のもの達が、本来の目的を叶える事なく、ゴミとして焼かれたり埋められたりしています。そんな中で、《こめのゆめ》のお米達は、人々の舌を楽しませる代わりに、目を楽しませるという新たな役割を担い、いつかは朽ち果てるその時までを大切に生きていく。それが彼らの(こめの)夢。
《こめのゆめ》の中に足を踏み入れ見上げると、天井から垂れ下がった米の糸が、小糠雨の様にも見え、しんとした静けさに身を包み込まれる雰囲気を味わえます。足元には雨が作りだした水溜りの様に、鏡が置かれています。

もう少し奥に進もうと思ったのですが、関守石に止められました。
(※関守石(せきもりいし):「これより中に入ることは遠慮されたし」の印)

米山さんの作品の面白いところは、この様な細やかな仕掛けですね。
**************
今回の展示で気になったのは、美術館のホワイトキューブの中では、お米と和紙の白さが目立たなくなった事。以前、七ツ寺共同スタジオや古川美術館為三郎記念館での展示の様な、くっきりとした米の糸を見る事ができず、少々残念。
期間: 2016年1月5日(木)〜2月21日(日)
※1月10日(日)米山よりこトーク
場所: 名古屋市美術館
米山さんの作品を拝見するのは、2014年秋の古川美術館《つむぐけしきよむこころ》以来だ。
名古屋市美術館の2階展示室に入ると、目の前に《こめのゆめ》が広がる。その両側には、白居易の漢詩が、和紙の切り抜き文字で貼り付けられている。この手法の作品は、古川美術館での展示から始まったものだ。

右側の壁には、六曲一隻(ろっきょくいっせき:6枚の折り畳み面)の屏風が架かっている。表層の紙は剥がされており、細かな文字が書かれた勘定帳(かんじょうちょう:江戸~明治の会計帳簿)らしき紙が、下張りとして使われているのが見える。特に貴重な品という訳ではなく、どこにでもある、“古い”表具を持って来て、切り抜き文字を張り付ける為の台としたそうだ。

反対側の壁面には、文字を切り抜かれた紙を壁面に直接、貼り付けている。

「日本の表具は、木の枠に勘定帳とか古い紙を沢山貼るんですけど、表の絵は、それにしっかりくっつけないで、いつでも剥がせる様にしています。部屋に合わせ、絵の貼り替えができる様に」
今回の展示は、「接着」をテーマにしていると説明をしていたが、くっつける事だけでなく、剥がす事も同じ様に大事なのだとの考えに興味を惹かれたそうだ。
切り抜き文字は、白居易(はっきょい:白楽天の字(あざな)でも知られる)の漢詩『和夢春遊詩一百韻』からのものだが、一般には、「合者離之始」(会うは別れの始め)の言葉でよく知られている。

「この世で出会った人とは、いつか必ず別れが訪れる」
出会いは必ず別れをもたらすとの世の無常を表す、と表層的には言われるが、その本来の意味は、
「別れの悲しみや、愛のはかなさをあらわすが、それは出会う喜びがあったからこそである。始めがあれば終わりがあるのが世の常ならば、別れがくるまでの時間を大切にすることが大事」なのです。
「接着」という言葉に於いて、貼る事と剥がす事が同義だというならば、「会うは別れの始め」の文脈に重なって来るのでしょう。
《こめのゆめ》が、左右の壁にある八居易の漢詩の切り抜き文字に挟まれて展示されているのも、象徴的です。日常生活の中で、余って捨て去られるところを拾われ、絹糸にくっついて、作品に生まれ変わったお米達です。今、日本では、食品廃棄の量の多さが問題になっています。本来食べられた筈の、食べ残しや売れ残り食品は、年間数百万トンにもなり、日本人1人当り、おにぎり換算で1~2個分を毎日捨てている事になるそうです。
人々の舌を楽しませる為に生まれてきたお米達ですが、かなりの数のもの達が、本来の目的を叶える事なく、ゴミとして焼かれたり埋められたりしています。そんな中で、《こめのゆめ》のお米達は、人々の舌を楽しませる代わりに、目を楽しませるという新たな役割を担い、いつかは朽ち果てるその時までを大切に生きていく。それが彼らの(こめの)夢。
《こめのゆめ》の中に足を踏み入れ見上げると、天井から垂れ下がった米の糸が、小糠雨の様にも見え、しんとした静けさに身を包み込まれる雰囲気を味わえます。足元には雨が作りだした水溜りの様に、鏡が置かれています。

もう少し奥に進もうと思ったのですが、関守石に止められました。
(※関守石(せきもりいし):「これより中に入ることは遠慮されたし」の印)

米山さんの作品の面白いところは、この様な細やかな仕掛けですね。
**************
今回の展示で気になったのは、美術館のホワイトキューブの中では、お米と和紙の白さが目立たなくなった事。以前、七ツ寺共同スタジオや古川美術館為三郎記念館での展示の様な、くっきりとした米の糸を見る事ができず、少々残念。
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